女塚伝説
女塚霊神・少将局


女塚伝説〜女塚霊神物語〜
南北朝時代、新田義興公(矢口にある新田神社に祀られています)は、父義貞公の志を継いで勤皇の軍をおこし、一度敗れて越後に逃れましたが、また武蔵国へ来て兵を募り、鎌倉の足利氏を討とうと軍を興しました。足利方では、竹沢左京亮に暗殺計画を授けて義興公のもとにつかわしました。竹沢左京亮はもと義興公の臣下であったので、罪を詫びて許され、更に義興公の歓心を得ようとして、京都から16、7歳の上臈を迎えて義興公にたてまつりました。これが少将局と呼ばれた女性です。

このようにして竹沢は義興公にとり入って重く用いられるようになり、時期到来としていよいよ暗殺を実行しようと企てました。一族郎党を集めて自宅付近に隠し、名月の宴を張って義興公を迎え奉り、隙をうかがって殺害しようとしました。これを知った少将局は義興公に文をとどけ、夢見が悪いから7日間は外出しないようにと招待に応じないようにしました。このため竹沢は少将局を殺害し、死骸をそのまま捨て置きましたが、村民が憐れんでまつったのが女塚であると言います。

義興公は武運つたなく竹沢の奸計にかかり、正平13年、矢口の渡しにおいて討たれ憤死して、多摩川の水泡に化しました。このことがあってから、矢口の渡しに夜「光り物」が現れ、往来の人を悩ましたので、村老等が墳墓を築き、社祠を興し、新田大明神として奉斎しました。

現在、大田区矢口1丁目に鎮座する新田神社がこれです。矢口の渡しは新田神社とは少し離れていますが、創建当時は多摩川が神社の前あたりを流れていたと言われています。多摩川はたびたび氾濫をおこして川筋を変えているので、新田神社前に矢口の渡しがあったとしても不思議ではありません。なお、当時の東海道は、今の第一京浜国道ではなく、矢口の渡しがあった所だと言われています。つまり、当時の大通りであったわけです。義興公に命をかけて忠誠を尽くした少将局は、今では新田神社からさして遠からぬ女塚に神としてまつられています。

女塚小祠
女塚小祠

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